●桃源郷 エル・ドラド 1991.01.

 絵柄が「病的」なくらいつげ義春化している。
 ちょっと真似をし過ぎたのかも知れない。
 事実、今はもう手元にはないが、ぼくの持っていたつげ義春や水木しげるの単行本は、繰り返し読みすぎて、手垢で真っ黒だったほどだ。
 ちなみに、なぜ今は手元にないのかというと、あまりに汚なくなってしまったので、「捨てた」からだ(笑)。
 しかし、どうしてここまで、ぼくは彼らの画風をサル真似してしまったのだろうか?
 それはやはり、前作の“つげもどき”漫画「夏の華」が、選外佳作ながら生まれて初めて認められたからだと思う。自分自身有頂天になって、この手の画風にのめり込んだ結果であった。

 しかし「夏の華」から、そのままのぼせ上がって本作品に至ったわけではない。その間には、いろいろと試行錯誤があった。
 まず、いわゆる「純愛漫画家」のレッテル(?)を貼られたぼくは、律義にもそれに応えようと、恋愛をモチーフにした漫画をいくつか試作していく。しかし前項でも述べたように、ぼくは純然たる恋愛漫画が描きたかったわけではない。結局この路線は頭打ち状態となり、途中で抛り投げてしまう。
 さらにその後、急に何を思い立ったのか、いきなり芥川龍之介風の王朝ものを描いてみたり、白土三平風の時代劇を描いてみたり、まったく関係のないジャンルの漫画を描きまくっていた。(当時たまたま「羅生門」や「地獄変」、「忍者武芸帳」などを読みふけっていて、突発的に影響されてしまったのだ)
 しかし、どれも出来映えとしては今ひとつ(いや、今みっつくらい)であった。

 こうして方向性に迷ったぼくは、結局「つげもどき漫画」に再び手を染めることとなる。そして出来上がったのが、本作「桃源郷(エルドラド)」である。
 実はこの作品は当時のぼくとしては、かなりの自信作であった。いろいろな試行錯誤の末に、ついに自分の方向性を見出したように思えたからだ。しかし今改めて読み返してみると、なんとも「タイトル負け」したかのような、期待外れのどっちらけ漫画に過ぎない。一体ぼくはこの作品のどこに魅力を感じていたのか?

 それは、この作品が、それ以前の作品に対するアンチ・テーゼになっていたからだ。
 「夏の華」以降、ぼくはリアリティのある漫画作りを心懸けていた。編集部に持ち込みした際に、散々リアリティのなさを指摘されたからである。そこで、登場人物の年齢・職業・バックボーンなどを織り込みつつ、リアルな作品作りを進めるようになる。いきなり「地獄変」や「忍者武芸帳」まがいのものを描いたりしたのも、その延長線上にあったわけだ。しかし、それらはすべて失敗に終わる。
 そもそもぼくは、上京当時シュール系の漫画を描こうとしていたはずだ。にもかかわらず、まったく違った作風のものに手を出してしまっていたことになる。その反省のもと、今までの作品をすべてうっちゃって描き上げた作品が、この「桃源郷」だったのである。
 例えば、ラストシーンで主人公の百蔵が、雨上がりの虹を背景に一句詠む場面。果たして彼のこれからの未来がどうなるのか、意味ありげに暗示したまま突き放して終わる。かなり不親切な終わり方である。しかし当時のぼくは、この不条理さ加減に大いなる魅力を感じていたのだ。これは素晴らしい作品だと自信満々であった。

 しかしながら、結論を言うと、この漫画はボツ作品であった。それもそのはずである。不条理な作品を描こうとするなら、それなりの描き方・魅せ方というものがある。この作品はそういった物語構成がまったく出来ていない。
 そのあたりを、ぼくはまだまだ理解していなかったのだ。


◀BACK
▲HOME
NEXT▶