この「トラローム商人」と「ケッペル博士」、そして次回作「真田虫太郎探偵局」の3作品は、ほぼ同時期に描いたもので、本来なら3作同時に「解説」を書くべきかも知れない。
しかし「真田虫太郎」に関しては、ある意味「いわく付き」の作品のため、それだけ別の章を立てて書くことにして、今回は前者の2作品について書きたい。
この2作品のうち、特に「トラローム」はぼく自身のハンドルネームにも採用してるし、また、トップページの扉絵にもしている。いわば、ぼくの代表作ともいえる“ボツ作品”である。「は? なんじゃそりゃ?」と言われそうだが、実はこれまたボツ作品なのだ。「ケッペル博士」にしても同様である。
しかし、ぼく自身にとって、この2作品は紛れもない「傑作」であり、誰になんと言われようと、悔い改める(?)つもりもない。なぜなら、「傑作」だからである(笑)。
そもそも、漫画家をこころざして上京してきた当初、ぼくはこういうシュール系のギャグ漫画を描こうとしていた。だが、「幸福屋の主人」の項でも述べたように、まだまだ力不足のため、やむを得ず(?)「夏の華」のような純愛漫画を描いたりしていたのである。
しかし「春告げ鳥」以降、いわゆる「原点回帰」として、いろんな作品を試行していくうちに、ついに上京当時の作風へと「回帰」するに至った。つまり、これらの作品群は、ぼくにとって試行錯誤の果ての「最終結論」であり、ついに辿り着いた「約束の地」なのだ。
例えば「ケッペル博士」などは、上京当時から「ネタ」としてはあったのだが、どうしても最後のオチが思い付かずに、そのまま「お蔵入り」していた作品だ。しかし、ある時ふと、このラストシーンが思い浮かび、そのまま一気に原稿化するに至った。
つまり、いわばこの作品は「7年越しの考えオチ」なのだ。そういう意味で、大変感慨深い作品だと言える。
また、「トラローム商人」も同様で、これは旧作「幸福屋の主人」の原型なのである。
「幸福屋」はそもそも、以前にも書いたように「なにを売ってるかも分からないような店の主人が、そこに来た客とすっとぼけた会話を繰り広げる漫画」という純然たるナンセンス漫画にするつもりだった。そう、まさにこの作品そのものだ。
しかし「幸福屋」の時は、いろいろと試行錯誤をした末、結局「テーマ性」「物語性」を導入してしまう。「それこそが、あの作品の『妙味』ではないか」と言ってくれる人もいるし、ぼく自身もそれを否定するつもりもないが、しかし、あえて反論するなら、やはりああいった「冗長なテーマ」など、ナンセンス漫画としては「蛇足」以外の何者でもない。
そういう意味で「幸福屋」は明らかな失敗作なのである。そして、この「トラローム商人」こそが成功作(?)なのだ。
……と、ここまで手前勝手な「ナンセンス漫画論」を披露してきたが、前述したとおり、これらはただのボツ作品なのだ。
編集部に持ち込んだ際、「意味が分からない」と言われ、これらの作品に対する「説明」を求められたのだが、ぼくは一切説明はしなかった。なぜなら、この手の漫画を説明するなど、それこそ「ナンセンス」だからである。
いや、さらに言うと「説明をしなかった」どころか、相手のしてくれたアドバイスすら、ぼくはまったく「聞いちゃいなかった」。もしかすると、これから漫画を描いていく上での素晴らしい「ヒント」を示唆してくれていたかも知れない。しかしながら、ぼくは「ボツ」と言われた段階で、まったく「聞く耳」を持たなかった。それはもう、頑迷すぎるほどの態度であった。
実際のところ、ぼくは今でも、これらの作品群は「自分の自分による自分らしい漫画」だったと自負している。
しかしながら、「最終結論」であり「約束の地」であるとは、今となっては思ってはいない。いや、それどころか「出発点」だったのではないかとも思う。つまり、今までは「大いなる助走」に過ぎず、「やっとスタートラインに立ちかけた状態」だったのではないか?
しかし、それにも関わらず、当時のぼくは完全に自信過剰で「かたくな」になっていたし、柔軟な態度に欠けていた。
つまりこの当時、ぼくはもはや漫画家としての「末期症状」を呈してしまっていたのである。
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