●つげ義春に関するちゃんとした小論


2005.04.04.

(きのうの続き)
つげ義春の作品中、最高傑作はやはり「ねじ式」であろう。
この作品は子々孫々にまで語り継がれるべき「世界遺産」である。
手塚治虫でも赤塚不二夫でも白土三平でも、このような実験的な作品は絶対に描けなかった。
「ねじ式」の出現によって、漫画という表現の可能性は無限大に広がった。
現代日本の尨然たるコミック文化を形成せしめた、その一翼を担ったといっても過言ではない。

しかしながら、「ねじ式」以外の作品が、どうにもわたしには「ピンと」来ない。
例えば「紅い花」だ。
この作品は大昔、天下のNHKでドラマ化にもなったもので(わたしは見ていない)、つげ氏の代表作のひとつでもある。
絵柄的には大変魅力的で、それこそ素晴らしい「参考書」なのだが、話の内容が、わたしには今ひとつよく理解できなかった。
以前、つげファンの人間とその話をしていて、「あの作品には、これこれこういう意味が暗喩されているのデアル」などと言われたのだが、「ふ〜ん。あっそう」という感想しか出てこなかった。

い…いや、お断りしておきますが、
わたしは別に、「紅い花」の作品自体を不当に貶めるつもりはありません。
また、もちろん自分の描いた漫画の方が百倍面白いなどと言うつもりもありません。
わたしの「クソ面白くもない」漫画は棚に上げて、単純に一読者として、自分勝手に思ったことを綴らせてもらっています。そこのところ、ご了承いただきたい。

わたしが思うに、つげ義春の評価は、ちょっとひとり歩きし過ぎているのではないか?
「ねじ式」にしても、締切日が間近に迫り、どうしてもアイデアが浮かばないので、苦しまぎれにその日見た夢を漫画に描いただけ、という「伝説」がある。
しかし、もしそれが本当であったとしても、いや、だからこそ、この作品は空前絶後の斬新な漫画になり得たし、「大傑作」なのだと思う。

だが問題は、「ねじ式」の評価が高まるにつけ、他のつげ作品も過大に評価されてしまったのではないかと言うことだ。わたしはそんな気がしてならない。
「沼」や「チーコ」、「李さん一家」、また一連の「旅もの」など、評論家の書いた解説文などを読んでみると、これらの作品には「なにやら深遠なるテーマ性」が潜んでいるかのように書いてあったりする。しかし、それはいくらなんでもオーバーではないだろうか。

現在つげ氏は休筆中であり、また、もともと寡作家の人でもある。
「そりゃあ、評論家連中から、ここまで持ち上げられ、褒めちぎられてしまった日にゃ、もうなにも描けんだろうな」と、わたしなぞは思ってしまう。
つまり、世論に翻弄された作家……これが、わたしの偽らざる「つげ義春評」である。


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