●「ギャグ」に関する考察


2005.10.17.

きのうに引き続き、「赤塚不二夫」について書いてみようと思います。

某少年漫画誌に「手塚賞」「赤塚賞」という新人漫画賞があるが、
かつては新人賞の名前に冠されるほど、両者の人気・実力は「双璧」(?)だったように思う。
(まあ、そんな風に思ってたのは、わたしだけかも知れないけど……)
しかしながら、現在では歴然と「差」が出来てしまっているように思う。
手塚治虫は「未来永劫」読み継がれていくかも知れないが、赤塚不二夫に関しては「?」である。
その両者の違いは一体なんなんだろうか? 
それは、結局「分野」の違いだったのではないかと、わたしは思う。
つまり、「ギャグ」という分野は、「使い捨て」の「若者文化」だということだ。

赤塚不二夫は、その「使い捨て文化」に殉じてしまった作家だったのではないだろうか?
例えば彼の弟子に、北見けんいちという漫画家がいる。
むかしは彼もギャグ漫画を描いたりしていたように思うのだが、ある時期「シフト・チェンジ」して、今では「つりバカ日誌」のような人情漫画(?)を描いて、成功している。
しかし、赤塚不二夫は決して「そういう路線」には行かなかった。
なぜなら彼は正真正銘の「ギャグ人間」だったからだ。

「おそ松くん」の後期や、「もーれつア太郎」の初期など、実は結構「人情ギャグ」っぽい路線だったように思うのだが、しかしいつの間にやら、彼はそういうモノを一切、かなぐり捨ててしまった。
その後、「天才バカボン」や「レッツラゴン」で、赤塚不二夫は「ギャグ殉教者」としての「極北」にまで到達してしまう。そして、ついに帰らぬ人となった(?)。
それも当然で、彼はみずから好んで、「使い捨て」される道を選んだからである。

つまり、ギャグというのは「永久不滅」のものではないということだ。
日々進歩を繰り返し、時間が経つと、あっという間に古臭くなってしまう。
例えば、エンタツアチャコの名作「早慶戦」を、今の時代に聴いたところで、笑う人間などいない。
(なかにはいるかも知れないけど……)
また、ダウンタウンの松本が、この先10年、20年経っても、「旬の芸人」でいるとも思えない。
ちなみに「息の長い芸人」として、「紳助」や「さんま」がいるが、
彼らは「面白い司会者」であって、決して「ギャグ芸人」ではないと、わたしは思う。
彼らはある時期(「ひょうきん族」の放送終了直後ぐらい)に、「シフト・チェンジ」したからこそ、今でも「息の長い芸人」でいられるのだ。

ともかく、赤塚不二夫の話に戻るが、
結局彼はそういう「シフト・チェンジ」をしなかったため、今では「過去の人」となってしまった。
彼の漫画で育ったわたしとしては、大変寂しいことではあるが、しかしそれは、彼が蒔いた種である「ギャグ文化」が、今でも日々進歩し続けている証拠でもあると思えるのである。


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